私のミュトスと心のロゴス



-watageから展覧会「ファシアを見つけたら」にいたるまで-









Watageの作品について

Watageを作り始めたのは、電子工作やプログラミングなどを主にアート表現として用いるメディア芸術を専攻していた時です。テクノロジーの表現の流行り廃りの速さとは違う時間の流れを持った作品を作りたいと思ったのがきっかけであり、当時インタラクティブな作品に興味がありました。インタラクティブとは、自分のアクションに対して反応が返ってくるということでありいわば、自分がここにいるという存在証明であるように感じます。自らの行動に対して応えを返してくれる作品は、私がここにいることを実感させてくれる存在でした。しかし、電力の供給が途絶えると、その作品たちも寂しい沈黙に包まれてしまいます。今振り返ってみると、当時の私は、人間が根源的に求めている「永遠性」を求めていたのかもしれません。
そこで、新しい表現方法を模索していたところ、ある日の4月の後半、タンポポの綿毛が風に舞っているのを見かけました。電力に依存する現代社会において、風を動力として飛ぶタンポポの綿毛は、私にとって非常に新鮮なものに映りました。そこで、私はwatageを創り出しました。人が近づいたときに生まれるささやかな風や、その場の大気の流れで動くWatageは、従来のインタラクティブ作品と比べて、よりシンプルでありながら、鑑賞者がその場に存在することを強く実感させる作品だと考えます。





watage 3つのテーマ

Watageの作品は、動と静、aloofの3つのテーマがあります。








「動」は、初めに作った作品で、その場の微かな影響によって動く作品です。













「静」は、綿毛を一旦水につけ加工したものを使用したものです。風で飛んでいく綿毛とは対照的に静かで硬度を感じる作品です。









「Aloof」は、受粉していない綿毛を使用した作品です。受粉していない種は、種になる部分まで真っ白なのです。種までまっしろな綿毛は、軽く大多数よりも遠くまで飛ぶことができますが、地面に着いても芽吹くことはありません。役割を持って生まれ、その役割を果たすことがない。役割ではなく、種のない綿毛自体に魅了され、そのもの自体を認めたかったのだと思います。







無垢に自身をを再認識するとは
 
当時の私は、コンセプトを書く際、言葉をコラージュするような感覚で作品も合う単語を当てはめ、文章を作りました。なぜなら、感覚的な作品を言葉に変換していくのに、論理で説明しようとすることは帰って、作品の風味を失ってしまうように思ったからです。それで、書いたコンセプトが以下の通りです。




手のひらに乗せても感知出来ない重さの綿毛。

その集積であるwatageは、鑑賞者の動き呼吸によって発生した微かな大気の流れに反応する。

人工的な動力を通さず、視覚化された周囲への影響は、

無垢に自身の存在を再認識させる。

watageはいつまで揺れ続けるのか。

いずれこの作品が朽ちた時、土に植えまた芽吹く日を夢見る。





コラージュするように出来上がった文章は作品にぴったりだと感じるのですが、正直言って、自分自身でも理解できていないことがしばしばあります。。特に、上記のコンセプトの一節、「無垢に自身を再認識させる」という部分が、私にとって今でも重要な問いとして残っています。







アニマアニムスとの出会い

2019年、私は大学院に入学し、専攻も大学も変わりました。その時期、フェミニズムや女性の権利に関する話題が頻繁に取り上げられるようになりました。女に生まれてきたことについて考える機会が多かった頃、私はOld   internetという作品を制作しました。その作品は、作品を通して見えた鑑賞者や対象が黄色から青のグラデーションの像に見える光と色の作品です。インターネットの匿名性や自由をテーマに、2010年代当時のインターネットの世界を表現しました。当時、現実とインターネットの世界は明確に分かれていたため、自由な自己表現を楽しむことができた場所だったと感じます。また、青と黄色という対極的な色のグラデーション(補色の関係)には、分離したものの調和性や統合性を見出したように思います。




その後、私はユング心理学と出会いました。この理論によれば、人間の心の中には、女性性と男性性が存在し、それらはアニマとアニムスと呼ばれています。女性性は感覚、感情、生命の源であり、男性性は秩序や理性、権威などを表しています。そして、人間には、本来的には女性性と男性性の両方が備わっているとされています。この理論に共感し、私は心理学に興味を持ち、学ぶようになったのでした。




2020年、大学院を卒業して海外での活動を目指していましたが、残念ながらコロナの大流行でその計画を断念することになりました。そこで私は、目に見えないものである無意識を、知識だけでなく実体験として感じてみたいと考え、ヘッドマッサージのお店で働き始めました。なぜヘッドマッサージかというと、私が働いたお店は眠りに特化しており、不眠や疲れに悩む人たちが集まる場所だったからです。ユング心理学によれば、「夢とは無意識的なこころの活動の直接的な表現です。」( 引用:『ユング 夢分析論』、C.G.ユング、みすず書房、p5)とあります。私は、眠りを観察することで無意識について触れることができるのではないかと考え、20-30代の男女から70代までの幅広い年齢層の数百人の見知らぬ寝顔を観察しました。




施術中は、「眠れない」と言ってきた人でも高い確率で眠っているのですが、中には体の動きによって「眠れない」という状態を表す人もいます。入眠が始まり静かになったころ、ゆっくりと体のざわめきが顔を出し始めます。首が傾いたまま硬直する人、顎をガクガクする人やカチカチと音を鳴らす人、ジリジリと食いしばる人もいれば、肌触りの良いブランケットの腹部が別の生き物のように動く人もいました。また、寝ている間に自分の顎の音で目が覚めたり、寝ている間の体の運動によって、深い睡眠が得られない人もいました。ある日、私が担当した男性が入眠してしばらくたった後、ぼそりと「たすけて。」と言ったことがありました。これまで聞いたことのないメッセージ性の強い寝言でしたので、施術後に男性に聞いたところ、全く覚えていなかったそうです。その瞬間、私は「自我の光が及ばないところで、何かがうごめいているのである。」(引用:河合隼雄 無意識の構造p398より)という心理学者の河合隼雄の言葉を思い出し、無意識の深さに感じ入りました。






2023年展覧会「ファシアをみつけたら」について


そこから、頭だけでなく体全体のマッサージについて勉強を始めた頃、展覧会のタイトルにもなった「ファシア(fascia)」に出会いました。マッサージというと指圧をメインとしコリをほぐすというイメージが強いですが、強く押し過ぎるとかえって筋肉を傷め、さらにコリを悪化させてしまうことがあります。つぼ押しのような強いマッサージと違うのがファシアへのアプローチ方法です。従来のツボ押しと違い「撫でる」「皮膚を優しく引き上げる」などのささやかな間接的な行為から目的となる筋肉や臓器を柔らかくしていく方法です。この方法は、筋肉をほぐすだけでなく、心理的な体の緊張感を和らげることもあり、体と心の両方に作用します。
ファシアは、筋膜とは異なり筋肉だけでなくあらゆる臓器を覆い、臓器と臓器を接続し、情報伝達を担う重要な組織でありながら、2018年まで解剖学でも発見できなかったそうです。なぜかというと、死体を解剖しても見つからないものだったからです。そこからファシアのように生きているうちにしか見えないもの、ささやかで日々の中でも見落とされながらも全体をつなげ成り立たせるもの、人によっては、繋がり、記憶、魂、信心、文化。そんなことをファシアから学んだように思います。









本展覧会の新作「homesickness (never been)」について


展覧会のコンセプトが大枠の体であり、その奥にあるのが心です。

今回の作品「homesickness (never been)」は、時折、気に入った作品を見ていると、「かえりたいな。」と思うことがあります。それは、家ではない場所で、どこか導かれるような場所があるからです。私たちの心を表現するために、私は箱庭療法を取り入れました。箱庭療法は、砂の入った箱に、植物、動物、建物などのミニチュアを置くことで、その人の心が表れるという方法です。「描く」でも「作る」でもなく、単純な「選択と配置」によって、どのようなものが生まれるのかを試みるものです。

今回、私はハガキサイズの紙を箱庭とし、そこに、平面のミニチュアとして、様々な柄のワッペンと柄のマスキングテープを配置しました。自分の心に合ったものを選んで配置する中で、残った構成要素は、チューリップのワッペンと窓の柄のマスキングテープでした。窓が配置されることで、空間が生まれ、その中にチューリップが佇んでいます。チューリップは、人間を表しているのではないかと感じます。




チューリップから見えてた関連性

展覧会中に「なぜ、他の花ではなくチューリップを構成要素として選んだのか。」と聞かれて後から振り返ってみますと、チューリップは、他の花のイメージと違い開花していたとしても閉じているような雰囲気で雌蕊(めじべ)と雄蕊が見える頃には、満開を超えているような印象です。雌蕊と雄蕊を見せず内包している姿がチューリップの持つ典型的なイメージであるのがとても興味深いと思いました。そもそも、植物は両性具有の存在であり、アニマアニムスの考えにも通じるものがあります。その共通性を調べてみるとゲーテに辿り着きました。
なぜ、今まで気がつかなかったのか不思議でしょうがありませんが、ユングの著作でもゲーテの引用があり、ゲーテの植物が持つ螺旋運動の垂直構造における男性性、螺旋構造における女性性の考えは、ユングのアニマアニムスという考えによく似ています。対立するものについてゲーテは「「さて私たちは最も普遍的な事柄に立ちかえり、すでに冒頭部で掲げた主張、すなわち垂直を目ざす体系と螺旋を目ざす体系とは生きた植物においてきわめて密接に結びついているということを思い出してみよう。さて、ここで垂直的体系が歴然として男性的なもの、 螺旋的体系が歴然として女性的なものとして示されることを認めるなら、私たちは、根に始まる植物の生長のすべてが両性具有的にひそかに結合されているさまを思い描くことができる。こうして生長のさまざまな変化の過程内で、二つの体系は明らかに対立しつつ分裂し、決定的に対抗して互いに自己の優位を主張し、やがて、より高い意味でふたたび一つになることを目ざす。」(ハンブルク版ゲーテ全集の『植物の螺旋的傾向』(HA XIII,148)と書いている。これは、ユングが提唱するアニマ・アニムスの発達段階に類似する点がある。アニマ・アニムスには、4つの発達段階があり、アニマは肉体的→ロマンティック→霊的→叡智となり、アニムスには、力→行為→言葉→意味という発達段階があります。一人の人間の中に存在する女性性と男性性が発達していき、時に反発と抵抗があり、そして、高い次元で統合されるという考えです。








初期作品であるWatageから「無垢に自身を再認識する。とは何か。」という問いがうまれ、そこから自分は自分の道を探求している感じていました。しかし、探し求めているものの共通点を見つけるたび自分は何かの周りを回る衛生のように感じることがあります。どこか習性といってもいいかもしれません。私の名前である(euglena)は、ミドリムシという意味です。私の父親は中華系タイ人であり、母親はペルー生まれの日系人です。私はそのような背景から、自分自身がどちらに帰属するべきか分からないどっちつかずの存在であると感じていました。そんな中、植物細胞でありながら動物細胞的な行動を取るミドリムシに共通点を感じ、自分の名前に決めました。このように関連性のないもしくは、対極にあるものの合一に自分自身を見出し、それを自分の子として作品にしているのだと思います。







むすんで ひらいて 手を打って むすんで

またひらいて 手をうって

その手を 上に







(euglena)